元彼氏として

実はもう「元彼氏」でもないのかもしれない。

いや「元彼氏」であってほしい「元元彼氏」とか語呂的にアウトだよ。もしかして「元元元彼氏」?いやそれじゃあもうなんか「前前前世」みたいだから。

 

弟が中学二年生。中学校の文化発表会に行ってきた。中学校のアウェー感は痛いほど感じた目線が痛かった。やめて。

俺が中学二年生の時何やってたかって菜種油絞るみたいに思い出して見れば「クラス内対抗騎馬戦大会」の開催者兼会長をやってた。何だそれ。クラスの男子に二人一組になってもらって勝ち上がりトーナメントで騎馬戦してた、優勝者にはカントリーマアム一袋。何だそれ。

それと好きな子が、おんなじクラスだった。

 

いつもは眼鏡を掛けてて、おとなしい子だった。教室の隅で一人おしとやかにアガサクリスティー読んでるような。吹奏楽部であの辺のグループで「ふふふっ」って静かに笑ってる。フルートだったかプルートだったかよく覚えてないけど丁寧に楽器を扱う子だった。がさつな野球少年だった俺とは縁もゆかりもないような。

 

合唱コンクール、その子は伴奏者。俺は男子、真面目にやるわけがない。「ねえ!男子ちゃんとやって!」が響いた教室はあれはなんだ漫画だったの?それとCDプレーヤー勝手にいじってラジオ聞いてたら担任の先生に上履きを投げつけられて走って逃げた。大人の本気は怖かった。伴奏者のその子は本番、眼鏡を外してた。あの頃の俺はそれを好きだと思った。結果は最優秀賞だったっけ、なんか賞はもらった。その子の弾くピアノも好きだった。

 

それからその子が俺のことを好いてくれてると、友人が教えてくれたのはもうちょっと先の事なんだけど。まあなんでもいいけど、俺はその子の、中学生の恋心をきっと台無しにした。嘘をついて、見栄を張って、誤魔化した。謝るタイミングはいくらでもあった、謝れなかった。ちゃんとクソガキだった、どうしようもない。それでも今ならきちんと謝れそうだとか、そんな事を思ってるけどきっとあの子は顔も見たくないだろう。わかる。それな。ごめんな。

 

こんな事をこんなとこに書いてるから、恥ずかしいやつだ女々しいやつだ、と散々言われるのだろうけど別にいいんだ俺は意気地がないんだそうだよそうですそうです意気地どころか何にもないですよそれでいいよもうそれでいいよ。

 

ここまでを吹奏楽部の演奏発表を聴きながら、フルートを吹く名前も知らない女子中学生を見ながら、その子の影を見ながら思った、ぼんやり。隣で母は泣いてた「一生懸命やっているのがクる」らしい。歳はとりたくない。

 

ショックなのか嬉しいのか分からないけど、先生たちは誰一人として俺のことを一発で思い出してはくれなかった「痩せて」「髪が伸びて」「服がきちんとしてる」なら別人に見えるんだって、雰囲気が違うんだって。俺は変わってないつもりだったけどいつのまにか全然違う人になってたらしい。吉川晃司から齋藤飛鳥ぐらい。できれば、元彼氏として、君にはあの頃のままでいて欲しい、眼鏡もそのまま。え?外した方が良かったんじゃないのって?今、あれ、俺、眼鏡フェチなんで。え?は?なに?最低?

 

 

 

 

 

受験戦争と冷えたアップルパイ

寝れない夜がある。

こう書くとなかなかなポエジーな、さよならポエジーな感じがするけど。タネ明かしをすると昼寝をし過ぎた、それだけ。

それもこれもあれも何かの縁だと思ってこれを書く。

 

低気圧が前線をゆっくり北上しているからか(いや実際そうなんだけど)曇天模様が続いている。

正直なところ、雨は好きだった。

あのなんだっけパッドウィンクスが主題歌と挿入歌を歌ってた「君のなんちゃら」、その「君のなんちゃらで」一躍有名になった新海誠監督が手掛けた最高傑作の一つに「言の葉の庭」がある。

鬱屈した日々を送り、靴職人を目指す男子高校生と生徒との関係も彼氏との関係も上手くいかなくて昼から新宿御苑でビール飲んじゃう新卒美人国語科教諭がなんかいい感じになる長編アニメーション映画。「言の葉の庭」。

これが梅雨時の話で雨が一つ大きなキーワードになるんだけど、これを見てから雨が大好きになった、いや本当に。

主題歌の「Rain」もエモいし。

でも、それでも、最近の雨続きには腹が立っています。僕はね腹が立ってる。

大体、受験生なんでこちとら荷物は登山客に引かず劣らずなんだよ。ただでさえ英語の偏差値が上手く伸びなくて悩んでんのになんでそれに加えて雨に憂鬱を割かなくてはいけないんですか。は?知らねえよ?え?うるせえよ受験生はナイーブなんです。労われ、黙って。

周りでも話題は受験のこと。あの教材がいいよ、その模試の結果ダメだったわ、この大学の過去問余裕だわ、なんなの。片腹痛いわ我、黙って。

もう恋なんてしないし、もう雨なんて嫌い。

 

それと親が飯を作ってくれない死活がある。

お金もないし、飯もないし、俺は結局台所の隅っこで哀しそうに横たわる一つ99円ぐらいでスーパーマーケットに売ってそうな冷えたアップルパイを週3日とかで食べてる。意外と飽きないどこかカレーのような趣すら感じる。寂しいけどね、そりゃまあ、多少は?

大学受かれば飯も作ってくれるでしょう!ね!そうだよね!そうじゃないとアイデンティティを失くしそう!全裸でダウンタウンへ繰り出しそう!(愉快)

 

なんでもいいけどもう寝るよ。明日も受験戦争。ノモンハンぐらいにボロ負けの毎日だけど、まだ限界じゃない。くるりの「ロックンロール」はイントロが総て。

 

弾いて弾いて歌うぐらいの比率

"弾いて弾いて歌うぐらいの比率"

 

文化祭。美術室の黒板にこの言葉を書いたのはきちんと理由があるんだよそうなんだよちょっと格好つけて意味のわからないことを書いたんじゃないんだよ違うんだよわかってくれよ。

1年生の時組んでたバンド(某タラロック)が方向性の違い()であっさりと終わっちゃって残ったのはツイッターアカウントとバンドの練習枠だけ。ツイッターはいたたまれなくてなんかもう見れなかったし、部活の枠はなんだか申し訳なくて「使いません」とは言えなかった。

冬、寒い日にアコースティックギター担いで部活に行って誰もいない部室で(時々自分の使わない隣の部室すら誰もいなくて鍵を取りに行かずに部室の前で弾いてることもあったなあエモいな)一人で弾いてたみんなを待ってた、まだやれるんじゃないかって本当はまだ続けられるんじゃないかって、でもやっぱり誰も来なくて。

でもその時に弾きまくったギターと歌いまくった歌はきちんと歌えるようになって徐々に徐々に弾き語りをするようになって。

何が言いたかったっていうと。血が出るまで弾いて弾いてちょっとでもいいから楽しく歌えるような比率、バンドが無くなって、悲しくって、辛くて、でも新しいバンドを組んだり弾き語りをして、ライブが楽しい!ぐらいの比率だと腐らずにいられるのでは。ってこと。それとあの時ギターを歌を褒めてくれた先輩がいなかったら「クリープハイプ歌うの?頑張ってね?」ってあの可愛い先輩が言ってくれなかったら、部活なんてとっくのとうにやめて家でPS4やってたと思う、PS4やりたかった楽しそうだし。

「彼女は頭が悪いから」を読んだ。

なんだってこんな事があるのか。が心象であり感想でもある。

2年前の4月に起こった東大生強制わいせつ事件、これに着想を得て書かれた小説だった。

舞台は神奈川県は横浜市の郊外。

2008年12月。中学二年生の神立美咲の「どうせ」という語りから物語は始まる。横浜市でも郊外に住む五人家族の長女の美咲は自分自身に、環境に、状況に、欲望に、「どうせ」を付与する事によって、抑制したり、諦めたりしながらしっかりした長女として生きていた。

一方で「無農薬野菜専門店のニンジンとパセリがいやというほど入った」ロールサンドを昼食に出す母をもつ竹内つばさは東京都渋谷区に住む中学三年生だった。

私立の中高一貫校に入学した兄との区別化を図りたいが為に入った公立校で出会った嫌な同級生にネットで知った"呪い"をかけるようなそんな中学生だった。

約6年後、ごく普通の女子大に入った美咲と東大に入ったつばさは邂逅し、「つきあい」を始める。ただただ純粋な気持ちで、あたたかな恋に身体や心を任せて。

しかしこの半年後には竹内つばさを含む東大生5人は強制わいせつ罪で逮捕される。そして被害者は、神立美咲である。

ストーリーはざっとはこんな感じだ。(多くを語れないのは是非とも著書を手に取って読んで貰いたいが為であるのはどうか理解して欲しい)

この非常に、異常に端的なあらすじでも感じとれる人は感じとれるのだろうが、著書は今世紀最大の"胸糞小説"である。

どうしようもない東大生たちがただ普通の女子大生を自らの傲慢さと歪んだ純粋さによって(またはその事件のレスポンスの大部分によって)「電信柱に縛られて公開リンチにされ」「みんなで小便かけ」られ「トイレに顔つっこ」まれ「精神をボロゾーキン」にした実際の事件からの着想を得て書かれた小説なのだから今世紀最大の胸糞小説になるのは必然的と思う。しかし胸糞だけでは終わらせることのできない深いテーマ性も同時に持ち合わせている。

この小説の救われない(救えない)ところは、被疑者となった東大生の5人、被害者となった神立美咲の両者ともがことごとく純粋であったという事、事件の現場において(またはその前提となりうるところにおいて)嘘はなかったという事だと思う。つばさと美咲の二人は出会ったその日にラブホテルに行く。この行為を極めて純粋だからこそできた行為だと著書は語る。

はじめはダーツだとかボウリングだとかドライブだとか文化祭だとかスポーツ観戦だとか、4人ぐらいでの行動があって、それから2人での映画とか音楽系ライブがあって…(中略)…そしてホテルがあって、それはあらかじめ予約しておかないとならないホテルで、でもビジネスホテルではなくシティホテルではないとならず、そういうホテルでようやくそうなる。

そういうことになった後なら、こんなホテルにも行ける女子はいたが、はじめからこんなホテルに行けたことは、つばさの場合はなかった。

引用した通り、つばさにはこんなことは今までなかった。ただ単に美咲の人の良さに惹かれ、笑顔の可愛さに惹かれ、そしてGカップに惹かれただけだった(これは健全な一般の男子大学生の反応だと私は思う)

そこにこいつとヤリたいだとか、そういう不純な感情は出会った瞬間、またはその後までは思い描かなかったはずである。その点ではやはりつばさはある意味で純粋であったと言える。さらにつばさは事後に処女であった美咲とこんなやりとりをする。

そのあいだじゅう、美咲はつらそうだった。終わってから、美咲が塗った口紅のような色がシーツについているのが、大きく身体を動かしたときに見えた。

美咲も見、つばさも見た。

「…」

見た美咲はぎくっと全身を硬くした。

つばさは彼女をそうっと抱きしめた。

「ばかだなあ。こんなところについてきて」

ばかだなあ。繰り返した。

今まで、インカレなどでハメ(それはもう「ハメ」と言える程の領域をきっとはるかに超えていたのだけど)を外してきたつばさの台詞とは思えないほどの優しい側面を私はここに見た。

そしてやはり美咲も純粋だった。

「横教の男子は見る目ないね」

 

「…見る目ないね」

つばさに言われて美咲はハッとした。

(見る目ないね…って、言われたかったんじゃないだろうか。自分はずいぶん長いこと、そう言われたかったんじゃないだろうか…)

この出会いより以前、美咲はそこそこに良い関係だった男子2人を"既成事実"によりぶんどられている。それでも美咲は「どうせ」私だから、と自分を律し諦めてきた。

そんな時に「見る目がない」と言ってくれたつばさは文字通りの「白馬に乗った王子様」に見えたに違いない。

その点でやはり美咲も純粋な処女であった。

しかしこの後、つばさと美咲はだんだんと意識の食い違いを深めていく。

そして出会ってから約半年後の2016年の春にあの事件が起こる。 

飲み会に誘われた美咲はこの日につばさとの関係をはっきりさせるつもりだったがつばさから強制される「盛り上げ役」としての自分の役割をこなす為に、98円のハイボールを飲み続け、自虐ネタを言い、場を盛り上げ、酩酊してしまう。東大生5人は机の下でLINEを交わす。

【この人はネタ枠ですね (笑)】

【ネタ枠。激ウケ。DB(デブでブス)ですな】

【おっぱいは大きい(笑)】

【ウエストがあるからプラマイゼロでしょ】

美咲は飲み過ぎたのに気付き、つばさとの関係をはっきりするのは諦めて帰ろうとする。

しかしそれをつばさが止め、二次会(東大生5人のうちの1人の部屋)へと誘い強引に連れて行く。

その二次会で、つばさが自分の裸の写真を他の4人に見せていたこと、居酒屋で払ったお金のお釣りを貰えていない(自分は人としてカウントされていない)こと、無理やりに上の服を脱がされたことなどにより計り知れないショックを受け、その日唯一の女子の参加であった大学の先輩にあたる優香の「いっしょに帰る?」という言葉に反応すらできない状況になる(この後優香は美咲を置いて逃げ帰ってしまう)

そして美咲はブラジャーも脱がされ、パンツも脱がされた。

東大生の1人は美咲のパンツのクロッチを「臭い」と馬鹿にし、まるまった美咲を踵で蹴り飛ばし、ドライヤーの熱風を臀部や陰部に当て、割り箸を性器に差し込み、カップヌードルを下腹部に落とした。

美咲は耐えきれずにあられもない格好でこのマンションを逃げ出す。

途中、コンビニに逃げ込もうとするが店頭に見えるカップラーメンに拒否反応を起こしてしまうシーンはむごたらしく悲しい気持ちになる。

美咲の必死の通報により。5人は逮捕される。

この後の公判で起訴された3人は「ただの飲み会の悪ふざけ」と供述する。

何をそんな事を、と我々は思う。しかし著書を読めばよくわかるのだが、実際に彼らは本当にそう思っていたのだ、純粋な心持ちにおいて。美咲の示談を受けた2人も同じようにそう思っている。

そうしているうちにメディアで大きく取り上げられるようになったこの事件に対してレスポンスが出始める。

薬りんごがTwitterで【のこのこついていったんだから、合意だろ!】とツイートしたのを皮切りに、美咲を、被害者を非難する声が殺到する【勘違い女】【アホ女】【反省すべきは女】更にその声は5chにも広がる…

私はこの小説を読んでいる。読んでいるからこそこの事件のこのレスポンスに対してえづいてしまう、どうしようもなく悪寒が走る。

しかしこのバックグラウンドがなければどうだろう。

学校から帰ってきて何気なくワイドショーを見る、そこには東大生5人の強制わいせつ事件が大きく取り沙汰されている。女は1人で終電過ぎにその東大生の家でお酒を飲んでいた、そしてわいせつな行為をされ、警察に通報した。私はきっと思う。女の方にも落ち度があるのではないのか」と。

ワイドショーの矮小な報道しか情報を取り入れなかった場合、このような思考に陥るのは必定であろう、その上Twitterでもそんな矮小な意見が台頭している。それならそうだ、きっと女が悪かったんだ、みんな言ってるし、東大生は頭が良いのに可哀想だ、それに比べてきっと被害者の彼女は頭が悪いのだろうな…

こんなことは極めて滑稽であり、まったく救えない。

その事件の過去性を一切無視して、出来事を取り上げ、判断を下す。東大生は立派だからきっと立派じゃないこの女に非があるんだとTwitterでのマジョリティーに同調し圧力を強める。

作中でたった1人、この大衆意見に反対する青年が描かれている。

こうなれとは私は言えない。私はきっとなれないからだ。しかしそれでもワイドショーの矮小な情報を得た時に過去性を顧みることはこれからできる。

私たちは過去性を顧みながら、自分の"おつむ"を使って必死にものごとを考えるべきである。

この過去性を顧みることのない浅慮な思考が台頭する現代の日本から誰もが目を逸らしている、とそう思った。私然り。

「彼女は頭が悪いから」は自らに向けた特大のブーメランである事を私たちは知らない。

 

 

 

 

『彼女は頭が悪いから』姫野カオルコ(文藝文秋)

 

 

 

 

 

第1回 友人の哲学と知り合いの境界 (仮)

僕はずっと「友達100人できるかな」を疑問に日々を過ごしてきました。有名なこのフレーズ、疑問を持つこと自体何かタブーを侵しているのではないのかと小さい頃は見て見ぬ振りをして周りの友達と笑っていました。

しかし月日を経て、僕はこの「友達100人できるかな」問題に立ち向かわなければならない場面に多数出会います。

友人がいる事を幸福とし、ある意味では美徳とする現代社会、それはあるベクトルでは個人主義の排他にもなり得ない。果たしてそれは本当の意味で幸福であり美徳であるのか?それを多角的にまた哲学的に検討を加え批判的な意見を(一方的に)投げかけたいと思います。

(このような堅苦しい様なタイトリングにしましたが中身は至って簡素なものとしましたご一読頂ければと思います)

1,「それな」の違和感

街中に出ると中高生ほどの男の子が3人のグループで楽しそうに閑話をしている場面を見かけました、彼らは至って楽しそうです。するとその中の1人が納得したようにこう言うのが聞こえてきました、「わかる〜それな〜」と。

 

「友人とはなんだろうか」と問いかけると実に様々な興味深い答えが返ってきます。

「何でも相談できる人」「趣味が一緒の人」「学校で同じグループに属している人」なかには「SNSで繋がっている人」と言う人もいます。

どれも否定はできませんし、その人の基準がそうあるだけで僕が口出しできる様な事もありません。事実、たしかにそれは正しいのかもしれない。

しかしどうでしょう、そこに「友人関係」の深層まで辿り着きえる本質的なものはあるのでしょうか?概念は広義でも本質はしっかり構築しなければならないのではないのでしょうか。その問題を第1章では取り上げたいと思います。

 

ではまず「友人」という概念をある程度のところまで整えなければなりません、『岩波国語辞典 第7版新版 (岩波書店)』には「勤務あるいは学校あるいは志を共にしていて同等の相手として交わっている人」とあります。なるほど簡潔で分かりやすいまとめ方を岩波書店辞書編集部の方々はしてくれています、ここではこれに不躾ながら少し追加をしてこれを「友人」の概念としたいと思います。「勤務あるいは学校あるいは志を共にしていて "見知り会った日数が一定の値を越えている上で" 同等の相手として交わっている人」ーーー

"見知り会った日数が一定の値を越える"とは具体的にどういう事なのか少し説明してみましょう。

友人とはコミュニケーションなしには成立しません、声、手話、文字媒体、様々なツールを使用する事によって成立します。それに加え「時間」というタームも重要になってくると言えます。

それはなぜなのか、つまり「友人」とは共に過ごす年月の中で絶えず再構築と再編成を繰り返すからです。

例えば、初対面のAとBがいます、AとBは初対面ながらも会話を試み、そうして2人は共通する趣味を探し当てました。しかし2人で過ごしていく内にお互いの嫌な面や受け入れる事のできない面が表層的に浮き上がってきます。2人は一夜一夜寝そのいわゆる「ダークサイド」についてを語らいました。するとどうでしょう2人は相手の「ダークサイド」を互いに認め合い、また2人で楽しく過ごす事としました。

さてここで質問ですが、出会った当初の2人と「ダークサイド」を認め合った2人、本質的に友人なのはどちらでしょう?

これは極端な例ですが、後者だと多くの人が答えるはずです。

2人は出会った当初よりもより深く他者への理解を深めて共に過ごす決断をしました。これは本質的な「友人」です。

では出会った当初の2人は友人ではないのか、いいや友人でしょう。しかし早期的な友人です。

2人は出会い、コミュニケーションを図る事によって「早期的友人」という関係性を築きます。そしてその後相手の「ダークサイド」を認める事によって「友人」への再構築を行い「本質的友人」へと再編成します。

前にも述べた通りこれは極端な例です、このような二段階で「本質的友人」へと再編成されることは全くあり得ません。お互いに様々な体験を超克してこそ「本質的友人」になりえます。

そのために友人の成立条件として、コミュニケーションと共に「時間」も重要になると言えます。

ではあの街中にいたあの3人の中の誰かが言った「それな」という理解は本質的なものだったのか。それを見極めることは難しいかもしれません。しかし僕たちの中で「それな」という理解は年々薄くなってきているのではないのでしょうか。早期的友人の中で浅はかでありまたにわかな深い理解を示すことで半ば暴力的に本質的友人に編成をする、このような状況が僕たちの周りでかなり増えてきていることに気付いている人も多いでしょう。2章ではこの問題の解決策を高等学校二年生現代文の学習要領最難関である夏目漱石の「こころ」から考えてみましょう。