gd_c 1220's diary

飛ぶ鳥を落とす勢いで生きろ

宇治抹茶ラテ

偶然性とか邂逅性とか、なくなってしまった時にどうなってしまうんだろうとか。

 

情報が煩雑な現代で自分の思考とか行動とか、ある程度のところでSNSとかインターネットに左右されてしまうのは、個人的に嫌だと思う。

SNSとかインターネットの情報だって偶然性はある」ってたしかにそうだけど、それは全然、"physical"な偶然性じゃない。本来の「偶然性」の意味合いとはかなり違ってきてしまっている (変化の多い言語の側面は否定したくないけど)

こうなると不特定多数との関係性もそのうち否定されていくのだろうか、とも思う。居酒屋や銭湯、古本屋でもいい、ある意味で雑踏な、そんな空間で出会う人々はきっと不特定多数の人々で、不特定多数だからこそとんでもない嘘もつけるしその裏で近しい人々にはできないような話も嘘に混じってできたりする。愛すべき不特定多数の人々とのコミュニケーションとコミュニティを、AIはダメダメだと一蹴するだろうか。

これは別に、反時代的な思考がいいって主張じゃない。本当にそれでいいのかい?って聞かれた時に自分が持ちえる最良の応答を形作りたいがために、系譜学的な思考も時には必要なのかなとかそんな感じ。個人的にTwitter大好きだし。

 

僕は過去の話をするのがとても好きで、それは昔の同級生とか学校の先生とか、好きだったアニメとか、好きだったあの子とかの話をすること。全部が全部、自分の身体で体験した過去の話で、「偶然性」の過去だからどれもこれもステキだ。変な話、彼らはもう過去の人で今の僕の前にヌッと姿をあらわすことはないから「死人に口なし」みたいな。だから話しやすくて、好きなのかもしれない、と考えたりする。

 

偶然を装って冬を過ごしたい。ドトール宇治抹茶ラテを飲んだ。